MOIZのBlog-的外れな指摘

アメリカ在住の日々の雑事を綴ります

寓話的な華氏451度と、警告の書的な一九八四年と

デストピア小説として最も有名な小説二つ、華氏451度(レイ・ブラッドベリ、伊藤典夫訳、早川書房)一九八四年(ジョージ・オーウェル、高橋和久訳、ハヤカワepi文庫)を続けて読んだ。

あまりにも有名すぎて読んでいないのと言うのがはばかられるほどだが、一九八四年の訳者後書きによると「英国 での「 読んだふり本」第一位がオーウェル の『一九八四年』だというのである。」ということなので、そういう人は多いのだろう。おそらく華氏451度も似たような状況だろう。最近100分de名著で華氏451度がとりあげられているのを見て、良い機会だからとKindle積ん読しておいたこの二つの本を続けてよんでみた。(読み終わったあとで100分で名著も見てみました。)

両者とも同様に有名な小説だが、読んでみた印象は大分違う。

華氏451度の方の主題は、デストピアに暮らす主人公ガイ・モンターグの疑問、成長、そして目覚めが主題で、デストピア世界の描写は部分的だしずいぶんと不完全だ。本が禁止され燃やされる世界だが印刷物は流通しているし、本を見つけて焼却処分する「昇火士」という仕事もずいぶん戯画的だ。また、この世界が行っている戦争の描写もほとんどなく、出てくるテクノロジー(血液の完全入れ替え、完全な記憶をもたらす薬、など)もSFというよりは魔法のような描かれ方をしているなど、ディテールにはあまりフォーカスされていないようだ。それに比べて主人公とまわりの人間との関わりや、本人の成長が詳しく描かれている。デストピア社会は舞台設定で、そこで主人公が何を読み取っていくかという方が主題なのだろう。そういう意味でこれは寓話的な小説であると感じた。

対して一九八四年は、多くの人が持つデストピア小説のイメージ通りの作品だった。小説としてはもちろん主人公ウィンストン・スミスとその周りの人たちを中心に進むのだが、この世界がどのような仕組みで成り立っているかの説明にも十分にページを費やしている。それどころか、この世界の新言語「ニュースピーク」の説明に付録一章を与えているほどだ。主人公の仕事も真理省記録局という、過去の記録を改ざんする省庁の官僚という、デストピアなら実際にありそうな職業だ。また、権力がどのようなこの社会を維持しているか、国が他の国とどのように均衡状態を維持しているかについても説得力をもって描写している。この本が書かれた当時ならどうしてもソ連や東側諸国の事を思い出しただろうし、現代にすむ自分にはどうしても北朝鮮や中国の事を思い出されてしまう。おそらくジョージ・オーウェルは、たんなるおとぎ話ではなく、現実的な警告の書としてこの本を書いたのだろう。主人公の内面の変化もデストピアを描く小道具の一つ、という印象を受けた。

このような主題の違いからか、絶望の中に希望を見いだす華氏451度と比べて、一九八四年はなんの希望も明るさもない100%のディストピア小説だ。自分の好みとしては一九八四年の精緻さが好きなのだが、華氏451度の人間の描かれ方を好む人もいるだろう。

この二つの小説は映画化もされている。華氏451度は1966年にフランソワ・トリュフォー監督によって、一九八四年はずばり1984年にマイケル・ラドフォード監督によって。(華氏451度は2019年にマイケル・B・ジョーダン主演で再映画化されたようだが未見)

古い映画ではあるが、華氏451度の方は、昇火士の仕事の(映画の中で意図された)滑稽さが際立っていた。隊長が講演で子供が本を持っていないかいちいち検分するシーンなど妙に頭に残っている。ただ特殊効果のシーンなどどうしても古さを感じてしまう。

一九八四年の方はまっとうなデストピア映画。ほぼ小説通りの世界とストーリーが再現されている。

最後に、ブログ・タイトル通り的外れな指摘をしておくと、華氏451度の中で一番驚いたのは「ヴァニラ・タピオカ」が出てくる事だ。そのころからタピオカあったんだ!

 

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